写メ日記
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2024年10月14日 02:05 の投稿
プロレスが好きで「プロレスとは何か?」を考えすぎた結果、近代プロレスを受け入れることができなくなってしまってプロレスファンを辞めた一番面倒くさいタイプの元プロレスファンから観た「極悪女王」の話。あまりにも面白過ぎて色々と語りたい欲が止められない!元プロレスファン的にどうしても紹介しておきたかったことがたくさんあるのだ!
いきなりだが、プロレスとは事前に勝ち負けを決めた上で行われるエンターテイメントショーである。そして試合の段取りや勝敗に関する決め事を「ブック」と称する。これはあくまでも隠語であり、日本のプロレスにおいて「ブック」はとても曖昧な存在だ。ファンも「プロレスとはそういうもの」と理解しながらも、そこには触れないように見て見ぬふりをして楽しむ人が多い。
プロレスを題材としたドラマを制作する際に「ブック」の存在について触れるかどうかは大きな問題だ。そして「極悪女王」が画期的だったのは、作中ではっきりと「ブック」に言及している点である。勇気のいる選択だったと思うが、今現在のエンタメ化を極めたプロレス界においては、もはやそこに配慮しなくても大丈夫という判断なのだろう。僕もそれを倣って、「ブック」ありきで話そうではないか。
逆にブック無しで、勝ち負けを決めずに行われる真剣勝負のことを「ガチンコ」という。今となっては「ガチ」という言葉はすっかり世間に浸透したが、もともとはプロレスや大相撲の隠語なのだ。
プロレスでガチはご法度である。結果を決めずに試合を行えば、「客を楽しませる為の試合」ではなく「自分が勝つ為の試合」となってしまう。そうなれば見ている人は楽しくないし、何よりもどちらかの選手が怪我をしてしまう確率が飛躍的に高くなる。年間に200試合以上するプロレスにとって、怪我で試合に出られなくなることは何よりも避けたいのだ。
だが頻繁にガチの試合が行われていた頭の狂ったプロレス団体があった。それこそ「極悪女王」の舞台となった80年代の全日本女子プロレス、通称「全女」だ。全女ではガチのことを「ピストル」と呼んでいた。とはいってもピストルは完全なるガチではないのが難しいところ。
プロレスとは相手選手の両肩をマットにつけた状態で3秒間抑え込めば勝ちである。逆に抑え込まれた側は、3秒以内に肩を上げようと抵抗する。だがプロレスは勝敗が決まっているショーなので、基本的には「抑え込むフリ」でしかない。
ピストルとは、この「抑え込み」を本気で行う試合形式なのだ。序盤は「普通のプロレスの試合」として行われ、決まった時間が経過したらピストルが開始される。後輩レスラーが適当な技を出して相手を仰向けにして「本気で」抑え込む。3秒以内に返すことができれば、攻守交替。こうして決着がつくまで交互に技をかけあうのがピストルである。真剣勝負とは言っても、首から上を攻撃したり、受身の取れない技を出していいわけではない。
そして全女特有の暗黙のルールはピストルだけではない。それが「25歳定年制」である。どれだけ人気があっても25歳を迎えると会社からの扱いが露骨に悪くなり、ほとんどの選手は25歳を過ぎるとほどなくして引退してしまうのだ。当時はまだ転職や女性の社会進出に対する理解が進んでいなかったので、早めに女子プロレスから足を洗わせることで第二の人生設計を立てやすいという意図があった。
この「25歳定年制」と「ピストル」の存在は作中では描かれなかったが、知っていると「極悪女王」の素晴らしいストーリーをより深く楽しめると思う。
例えば作中においては「ジャッキー佐藤vsジャガー横田」がブック無しで行われていた。これは実際にピストルだったと言われている。ジャガーが勝ち、王座を失ったジャッキーはこの後すぐに引退してしまう。この時のジャッキー佐藤は24歳。25歳定年制があるため、どの道レスラー生活は長くなかったのだ。そう考えると「わざと」負けたわけではないのだろうが、どうせもう辞めるのだから後輩に花を持たせてもいいかと思っていたのかもしれない。
あるいは物語のクライマックスである「長与千種vsダンプ松本」の敗者髪切りマッチ。作中では長与が「今の全女人気は全部自分のおかげ」という傲慢なキャラになっており、勝ちブックを譲るように直談判するもブック無しで戦う事になるという展開だった。これはドラマオリジナルのフィクションだと思う。実際の長与はある意味で究極のエゴイストであり、自己プロデュース能力が異常に高かった。自分が結果的に美味しくなるのであれば、負けることも公衆の面前で丸坊主にされる辱めも、喜んで受けるタイプだ。なのであの試合はブックが有ったし、長与は自ら進んで負けを受け入れたと思う。長与本人がドラマの監修に入っているのにこの描写をNGにしなかったのも、「こうした方が面白い」という計算が出来る人だからなのだろう。
プロレスに否定的な人や興味が無い人はブックについて冷ややかな意見を述べる。「プロレスってやらせじゃん笑」と。では勝ち負けが事前に決まっていると言うけれど、それは誰がどうやって決めているのだろうか?
人気のある選手が勝つのか、実力のある(ピストルが強い)選手が勝つのか。これはプロレス業界が抱える命題であり、「極悪女王」の中でもその葛藤は描かれていた。アイドル的な人気を博したジャッキー佐藤がエースの時は全女は大ブームを巻き起こした。だが歌って踊って人気になったアイドルが「プロレスラー」としてエースであることに否定的な意見もあるだろう。一方でピストルは強いが華の無かったジャガー横田がエースだった時代は、人気が低迷した。どれだけ実力があっても、客が呼べなければ会社としてやっていけないのだ。
そう考えると、人気の長与と実力の飛鳥がクラッシュギャルズとしてブレイクするも、方向性が違ってギクシャクしていく展開もより解像度が上がって見えるのではないだろうか。
25歳というタイムリミットに追われながら、「人気があればそれでいいのか?」「実力でのし上がるのが正解なのか?」と各々のイデオロギーをぶつけ合う事でブックを超えたドラマが生まれる。プロレスとはショーであり、多くの部分がフェイクだ。だがそこに込められた人間関係や感情には、何よりも純粋なリアルがある。プロレスとはゴールの無いマラソンであり、まるで底が丸見えの底無し沼だ。
僕が好きだったプロレスはこういうのなんだよなぁ…と「極悪女王」を観て懐かしい気持ちになった。過激なセンチメンタリズムに浸る秋の夜長。
深夜のジョナサンで不貞腐れてる人。
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2024年10月10日 02:05 の投稿
日記を更新する理由は何だろうか。多くの人にとっては集客のためかもしれない。しかし僕はもう少し先のことを見据えている。実際に会ってからの時間こそ重要なのだ。
大切なのはミスマッチを避けること。魅力的な言葉だけを並べるのは賢明かもしれないが、それで会った時に違和感が生じてしまっては満足を得ることは難しい。テクを売りにしているのに実際は下手だったり、優しさアピールしているのにそうでなかったら、失望を招くことになるだろう。
僕は「なんだこのひねくれ者は!」「こういう拗らせてる人は無理!」「コイツめんどくさそう!」って思われるような日記を狙って書いている。それでいいと思っている。日記とは会う前に「合うか」「合わないか」を判断する為の材料であるべきだ。そして、どうやったって100人中100人に好かれるなんて不可能なのである。ならば「この人とは合わない」と思われることこそ写メ日記本来の存在理由であり、もっとも目的に沿った運用方法ではないだろうか。
僕だって、当たり障りのない日記を書こうと思えば書けるのだ。…たぶんね。無難な日記なら読む人に「コイツ合わないな」と思われることもないだろう。でもそれは裏を返せば「この人とは合うかも」と思われることもない。何の印象にも残らなければ、それはすなわちスタート地点にすら立てていないということだと思う。
つまり何が言いたいのか。僕に興味を持ってくれている「貴女」は、とても貴重な存在だと言うこと。「貴女」が思っているよりも、「貴女以外の女性」は僕に興味が無いのだ。
世の中の多くの人は「当たり障りが無く」「ありきたり」であることに寛容である。僕に興味がある「貴女」はそのことに対して退屈を感じる価値観なのかもしれない。似たり寄ったりで印象に残らないなぁって思っているから、僕に興味を持ったのではないだろうか。
だいたいの人は根拠のない綺麗事であっても、言葉をそのまま受け取ることに抵抗がないのである。僕に興味がある「貴女」はとても慎重で、言葉の信憑性をよく考える人なのかもしれない。癒しますって具体的に何をするの?何をもってしてオススメと言うのだろう?説得力のない言葉を鵜呑みにしないから、僕の文章に惹かれたのではないだろうか。
そういう感性を持った人に刺され!って思いながら、かなり打算的に日記を書いている。「合わない人」は会うまでもなく、この日記の時点で「合わない」と感じているはずなのだ。逆に言えば日記を読んで僕に興味を持ってくれたのであれば、「僕」と「貴女」はきっと相性が良い。
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2024年10月9日 02:05 の投稿
ありがたいことに文章力を褒めてもらうことが多い。僕は本を読まないし、国語の成績が特別良かったわけでもないので、自分でも不思議だ。だが子供の頃から、「考えを文章化する」というプロセスを大切にしていたから、そのおかげかもしれない。僕はいつだって頭の中で何かしらの文章を紡いでいる。その感覚は当たり前で、僕以外の人もそうなのだと思っていたけれど、実はそうではないのかもしれない。
そうなるきっかけは、僕が小学生高学年の時だっただろうか。「もったいない」という日本語が世界的に知られるようになった。持続可能な消費や環境への配慮が盛んになり、エコ活動の象徴としてこの言葉が使われるようになった。「もったいない」という概念は日本独自のものであり、直接的に同じ意味を持つ単語は外国語には存在しないらしい。それを知った時、僕は衝撃を受け「言葉」について考えたものだ。
当時の僕は、「では海外の人はもったいないと感じた時にどうするのだろう?」と疑問を抱いた。そして子供なりに考えた末に「もったいないと感じる事がないから、それを表現する単語が存在しないのだろう」という結論に至った。
この時、子供ながらに言葉=概念だと解釈した。そして腑に落ちる感覚と共に、一抹の不安を覚えた。
当時の僕は同世代の人達の会話にうまく馴染めないでいた。同じ時代、同じ地域に生まれながら、付き纏う疎外感はさながらカルチャーショックのようだった。昨日の出来事を、面白かったつまらなかった、そんな短い単語だけで会話を楽しめる人を訝しんでいた。あげくに良い場合も悪い場合も「ヤバイ」という一言で表現するようになり、僕は違う星に迷い込んだかのような居心地の悪さに苛まれることとなった。
僕にとって「思考」とは「頭の中で言葉を紡ぐこと」であり、そして「言葉」は「概念」である。ならば語彙力が低く、文章力に乏しい人の頭の中はどうなっているのだろう。僕の想像では、文章力と思考力はほぼイコールだと思っていた。どんな物事に対しても「ヤバイ」としか言わない人は、「ヤバイ」とだけ感じて「ヤバイ」とだけ頭の中で考えて「ヤバイ」とだけ発言しているのか?それはあまりに不可解で、まるで自分とは違う生き物のように思えて不気味だったのだ。
そんな現実にリアリティを感じられず、自分の事すらもどこか他人事のように俯瞰している10代だった。まるでこの世はオンラインゲームで、言動を自分の意思で操作できるプレイヤーキャラクターと、プログラムに従って自動的に操作されるノンプレイヤーキャラクターがいるかのようだった。そうして、僕は他人への興味を失ったのだ。
やがて大人になり社会人を経験して、気が付けば僕も他愛のない会話を嗜む様になってしまった。相変わらず脳内では思考を繰り返し無限に文章を紡いでいたが、それを口に出す機会はなく、その時になってやっと理解した。人は頭の中で考えていることの全てを言葉にするわけではない。当たり前のことだが、気付くまでに随分と時間がかかってしまった。
思考の一部分しか文章化しないのは状況や相手を考慮してのことなのかもしれない。あるいは思う事があっても、それを文章化するのが苦手なのかもしれない。いずれにせよ僕は、他人の文章化されない思考の部分をもっと知りたいと思うようになった。
今まで人に興味が無かったからこそ、今は人への興味が非常に強い。普通の人が10年20年かけて興味を持って理解してきたことを、今更ながら興味を持ち始めたわけだから当然だ。他愛のない会話の中から「この人をより深く知るためにはこの話題を掘り下げてみよう」と考えながら話すのは楽しいと感じる。昔は嫌いだった薄っぺらい天気の話も、今では普通にできるようになった。人の営みというものはそういうものなのだと、少し理解できるようになってきた気がする。
他人に興味を持たない生き方も嫌いではなかった。でも自分には無い思考や発想に触れるのはとても面白い。それを知らないままでいるのは、もったいないと思うようになったのさ。
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2024年10月5日 20:05 の投稿
どうせエビを食べたらプリプリって言うんだろう?チャーハンを食べたらパラパラって言うし。ハンバーグを食べたら肉汁が~って言うに決まってる!
それは世間の最大公約数的な意見のトレスに過ぎない。そこに自らの価値観は反映されているのか?果物や野菜の美味しさを語る時に、まるで決め事のように「甘い」と表現しやがる。でも本当に「甘いこと」が「美味しいこと」なのかよぉ!?
果物の持つ本来の酸味が!その野菜特有の苦味にこそ!真実の「美味しさ」があるのではないだろうか。「甘いこと」が「美味しいこと」だと言うなら、隅っこで砂糖でも舐めてなさいよ!
肉の品質を語る時、揃いも揃って柔らかさをアピールしちゃってさぁ!?簡単に噛み切れるって。豚の角煮を食べれば、ほろほろって言うのは分り切っている!二言目にはお箸でも切れちゃうって、もう何回聞いたことか。そんな表現は聞き飽きた。肉は柔らかければ柔らかいほど良いってのか?僕は少し噛み応えのある肉の方が好きなのだ!
冷めた唐揚げが!しなしなのポテトが!!しっとりしたチャーハンが好きだ!!!昨晩食べきれずに放置していたチーズの固まったピザをハサミで切って食べることに憧れるのがそんなに変なことかよぉ!?
人は僕の事をひねくれ者と言う。僕もそれを認めよう。では「ひねくれる」とは何か?僕は「思考を止めない事」だと思っている。良いように解釈しすぎか?だとしても!!思考を停止することへの反発であり、人の意見に流されることへの抵抗だ!
画一的に似たような意見に収束するのを否定したわけじゃない。そこに至るまでのプロセスとして、自らの価値観で考えたのであれば、それは尊重すべき意見だと思っている。
僕は逆張りをしがちではあるが、ただマイノリティを気取りたいわけじゃない。大谷選手を応援しているし、サッカーの代表戦も時間が合えば見る。SNSで話題のスイーツを食べたがるし、連載の時はそうでもなかったくせにアニメ化してから鬼滅の刃を評価する。そういう一面もある。ミーハーを毛嫌いし、ただ反対意見を言うだけの人とは違うのだよ。
「自分の考えを、自分の言葉で」今まで特に意識していなかったけど、僕はこの思いが強いのかもしれない。指名してくれた女性とお会いしている時はもちろんのことながら、それ以外の時でもわりとこの仕事を楽しめてる。それはこうして自分の価値観を発信することが嫌いではないからなのだろう。
ちなみにEggs 'n Thingsの「和モンブランパンケーキ」を食べた僕は「ふわっふわで甘くて美味しい~」って思いました。…実際にはそんなもんよ。
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2024年10月5日 02:05 の投稿
己の機嫌によって他者への態度を変える人がいる。そうした人との関係は、まるで嵐の中にいるようだ。不機嫌という風が吹けば、ささいなことでも怒りの波が立ち、避けようとしても巻き込まれてしまう。そんな荒波の中で相手の顔色を伺いながら付き合うのは、実に疲労を伴うものだ。
多くの人がこのような関係に辟易し、「優しさ」や「穏やかさ」という安らぎを求めるのは無理もないことだろう。僕もそういった価値観に概ね賛同する者の一人だ。しかし、だからといって「決して怒らない人」が「良い人」と言えるだろうか?もちろん苛立ちを理由に無関係な人にまでその怒りをぶつけるのは非難されるべき行為だ。物に当たることなどもってのほかである。
だが、もし苛立ちの源が相手の言動にあるのであれば。それを伝えることは必ずしも悪ではない。もちろん、その伝え方が問題である場合もあるだろうが。もし常にどんな場面でも「怒らない」ことが「優しさ」や「穏やかさ」とするならば、僕はそれを受け入れない。無礼や非常識に対しては、毅然とした態度を貫きたい。僕は「怒るべき時には怒る人」でありたいと願うのだ。
ゆえに僕は「優しさ」や「穏やかさ」をことさらアピールするつもりはない。だからこそむしろあえて逆に、僕の怒りが爆発する瞬間を教えてやる!
「リッターがヤグラに乗ってくれない時」これはスプラトゥーン3というゲームの話だ。多くの人には馴染みがないかもしれないが、スプラプレイヤーの中には今これを読んで激しく共感し頷いている者もいることだろう。
スプラトゥーンは、水鉄砲やローラー、バケツなど個性豊かなブキを使ってインクで地面を塗り合いながら戦う4対4のオンラインシューティングゲームである。いくつかのルールがあるが、僕が好んでプレイする「ガチヤグラ」は、ステージ中央にあるヤグラを相手陣地のゴールまで運ぶというルールで、シンプルながら奥深い戦略性が要求される。
ヤグラは一人でも乗っていれば自動的にゴールに向かって進むが、当然敵チームはそれを阻止しようとする。そのため射程の長いブキがヤグラに乗り、射程の短いブキは前線に出て敵を抑えるのがセオリーとなっている。そしてリッターはゲーム内で最も射程が長いスナイパーライフルのようなブキであるため、その役割はヤグラに乗ることに他ならない。
しかし頑なにヤグラに乗らないリッターが多いのだ。敵を倒し前線を押し上げて数的優位を築いているにもかかわらず、リッターが安全な場所に引き籠っているせいでヤグラが進まない。このような状況に直面すると、僕は内なる叫びを抑えきれなくなるのだ。キエェ~!ってなる。
僕は塩対応などしたことがないし、これからもそうするつもりはない。しかしもし貴女が自らのデス数ばかりを気にして、安全圏から動こうとしない「ヤグラに乗らないリッター使い」だとしたら。その時初めて僕は塩対応をするかもしれない。僕は「怒るべき時には怒る人」でありたいのだ。お願いだからどうか早くヤグラに乗って?
スプラをしている時以外の僕は、基本的には温厚だよ。たぶんね。