写メ日記
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2024年11月8日 01:05 の投稿
一昨日の夜ご飯。焼きとうきびとチーズの醤油バターオムライス!そりゃコーンでチーズで醤油でバターでオムライスなのだから美味しくないわけがないのだ。メニューの写真を見て想像した通りの味で、やっぱりそりゃそうだよねって美味しさだった。醤油とバターで炒めたら何でも美味しい。そりゃそうだよね。
でも美味しさに呆けて、お気に入りの眼鏡をお店に忘れてきてしまったのよ。ちゃんと忘れ物として保管してくれてたので、今日はそれを回収してきた~。
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2024年11月8日 00:05 の投稿
一昨日の夜ご飯。焼きとうきびとチーズの醤油バターオムライス!そりゃコーンでチーズで醤油でバターでオムライスなのだから美味しくないわけがないのだ。メニューの写真を見て想像した通りの味で、やっぱりそりゃそうだよねって美味しさだった。醤油とバターで炒めたら何でも美味しい。そりゃそうだよね。
でも美味しさに呆けて、お気に入りの眼鏡をお店に忘れてきてしまったのよ。ちゃんと忘れ物として保管してくれてたので、本日はそれを回収してきた~。
アップル?でメール送ったりできるらしいけど、アンドロイドユーザーだからよく分かんね。
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2024年11月5日 03:05 の投稿
アニメは好きで昔からあれこれ見ているけれど、そのわりには声優への関心は薄い。まずキャラを好きになって、その役を演じているからという理由で声優を好きになることはあるけれど、声優単体で誰かのファンになったことは無いかも。
声優ファンに怒られそうだけど、今の声優は「声の俳優」というより「ナレーター」や「キャスター」に近い気がする。ニュースキャスターも「動物園のサルが脱走したニュース」と「有名人が病死したニュース」とでは声色を使い分けるが、今の声優がやっていることはそのバリエーションのように感じてしまう。こういう場面ではこういう声の出し方、こういうキャラはこういう話し方、というのがパターン化されていて、誰がやっても同じように聞こえる。声優の演技がどうこう以前に、そもそもキャラクターがパターン化されているから仕方ないのかもしれないけれど。「演技や表現」ではなく「技術と知識」って感じ。もちろんそれはそれでプロフェッショナルで素晴らしい事ではあるのだけれど。
これは声優の問題ではなく、ここ10数年のアニメ業界の流れからして当然のことなのだろう。昔はオリジナルアニメが多かった。原作が無いのでキャラのイメージは制作陣の頭の中にしかなく、声優の演技によってキャラが構築されていった。
今のアニメはほとんどが漫画やノベル等の原作付き。ネットの普及もあって、アニメ化する前からキャラのイメージがファンの間で完全に出来上がって共有されている。今の声優に求められるのは、そのイメージを壊さないこと。「イメージとは違ったけどこれはこれで良い演技」「そういう解釈もあったか」という評価のされ方はほとんど無い。「キャラ」への解釈ではなく、「ファンがキャラをどう解釈しているか」への解釈が求められている。
あと1クールのアニメが多いから、一人のキャラにわざわざ時間をかけて掘り下げていられないという事情もありそう。
悟空とルフィの声優が入れ替わったらたぶんキャラのイメージは全然違うものになるだろう。でも竈門炭治郎とエレン・イェーガーの声優が入れ替わっても、それぞれのキャラに合った演技を器用にこなして、キャラのイメージ自体はほぼ変わらない気がする。どのキャラを誰が演じても同じようなイメージになると言う事は、それだけ演技の幅が広くて、若手声優全体の実力が底上げされているということだから良い事なのかもしれないけど。
どちらが良い悪いという話ではない。声優として上手い下手という事でもない。ベテラン声優さん達は口を揃えて今の若い声優は上手いと言っているし、実際にそうなのだろう。ただ僕はやはり、声優の演技によってキャラのイメージが肉付けされていく昔の声優が好きだな。あと声優はあまり顔を出さないでほしいタイプなので、アイドル活動してなんぼの今の声優さんはちょっと興味を持ち辛い。
ちなみに僕が一番好きな声優は『機動戦士Ζガンダム』カミーユ・ビダン役の飛田展男さん!ただ単純にカミーユが好きなだけ。僕が今まで観たアニメ、映画、漫画、小説、ゲーム、ドラマ、あらゆる媒体の全てのキャラクターの中で、カミーユ・ビダンがダントツで一番好き。
一昔前に比べると、アニメを見る本数はだいぶ減った。今季は「ダンダダン」「BLEACH千年血戦篇」「ドラゴンボールDAIMA」くらいしか観てない。ジャンプ系ばっかりだね。そもそも何やってるのかも全然知らないや。オススメのアニメあれば教えて~。
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2024年11月4日 02:05 の投稿
「レッツ・ボルトイン!」
たとえ あらしがふこうともたとえ 大波あれるともこぎだそう たたかいの海へとびこもう たたかいのうずへ
言わずもがなボルテスVのOPである!もちろんご存じよね?フィリピン国民の9割が歌えるのに、日本人が知らないって事はないでしょう。
「超電磁マシーンボルテスV」とは1977年に放送されたロボットアニメである。ボアザン帝国の侵略から地球を守るべく戦う正義のスーパーロボット・ボルテスVとそのパイロット5人組の活躍を描く。ボアザン帝国は角の有る者は貴族、角の無い者は労奴という差別社会。当時のロボットアニメとしては珍しく、敵側を掘り下げるドラマ性の高さもあり、大人の視聴にも耐えうる作品となっている。
そしてボルテスVと言えば何と言ってもフィリピンでの異常人気である。フィリピンで放送された当時は、マルコス大統領による特権階級を優遇する独裁政権の真っただ中。角の有る無しだけで差別される理不尽を否定し、特権階級にふんぞり返る悪を正義の力で打ち砕くという、ボルテスVの反体制運動的なストーリーがバカ受けしたのである。クーデターの機運を高め兼ねないと危惧してなのか、政府は最終回直前でボルテスVのテレビ放送を中止するなど社会に大きな影響を与えた。なんでもフィリピン人の多くは、OPの「ボルテスVの歌」を日本語で歌えるのだとか。OPを歌唱した堀江美都子さんがフィリピンへ行った際には国賓待遇だったらしい。
そんなフィリピンの大きすぎる【愛】で、半世紀の時を超えて実写映画化されたのが「ボルテスVレガシー」なのだ!
いやぁ、なんかもう凄かった笑ボルテスVを好きな人が、ボルテスVが好きな人に向けて作った映画って感じ。色々と雑過ぎるけど、それすらも「70年代のスーパーロボットアニメってこういうノリだよね~笑」って楽しめる人にとってはたまらない作品になっている。正直、ハリウッドの最新CGに比べると安っぽいのだが、それすらも「70年代のスーパーロボットのチープさ」を表現していると解釈できて、ファンとしてはニヤニヤしてしまう出来である。ことあるごとに色んなアレンジの「ボルテスVの歌」が挿入歌として流れるのも非常に良い。
ちなみに僕は最初の合体シーンで号泣してた。当然、合体時にも「ボルテスVの歌」が流れるわけだが、これが日本語の歌詞なのよ。日本公開版だからというわけではなくて、フィリピン公開版でも日本語の曲を流してるんだって。愛が徹底してるね。
結論として、ボルテスVに興味が無い人は間違っても観に行っちゃダメ。ちなみに僕は映画を一人で観る時は一番後の一番端の席を取るタイプ。そんなことより僕とブイ・トゥギャザーしてレッツ・ボルトインだッ!!
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2024年10月31日 18:05 の投稿
ネガティブよりポジティブであれ。自己肯定感は低いより高い方が良い。まったく…、世の中の押しつけがましい風潮を感じるな。
僕が神と崇めて尊敬している人が二人いる。プロレスラーのアントニオ猪木さんとアニメ監督(機動戦士ガンダム、伝説巨神イデオンなど)の富野由悠季さんだ。二人に共通するのは「ネガティブな感情を原動力にしている」という点。怒りや悲しみ、妬み、不平不満をエネルギーに変換した時に最高のパフォーマンスを発揮する。ネガティブかポジティブかは重要ではなく、それをいかに解釈するか。それによってもたらされる効果に目を向けたい。
究極の自己肯定感とは「存在するだけで自分には価値があると思えること」だと思う。「ありのままの姿見せるのよ」「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」などの歌詞が持て囃されるのも、「存在するだけで価値がある」と思い込みたい気持ちに付け込んでいるから耳障りが良いのだろう。でもそれらのメッセージは、解釈によっては向上心の否定とも取れる。
僕がどちらかと言えば性悪説寄りの考え方だからなのかもしれないけれど、本当にありのままで良いのか?と思ってしまう。歩きながら煙草を吸うのも、道端に痰を吐くのも、店員さんに横柄な態度を取るのも、ありのままの姿なわけだが?僕はそれらを肯定するつもりはまるで無い。
ちなみに僕は10代の頃、「ナンバーワンにならなくても良いって歌ってるそいつらナンバーワン国民的アイドルグループやぞ!?悔しくないのか?馬鹿にされてるんだぞぉ!?目を覚ませッ!!立てよ国民!!!」ってブチギレてた。今はそれほど苦手意識ないけど、でもやっぱりちょっと苦手な曲かも。
女風のキャストにおいても、ネガティブよりポジティブであれという空気を感じる。そりゃ後ろ向きな事ばかり書いている人よりも、前向きな発信をしている人の方が魅力的だろう。だが改めて今一度よく考えてみよう。本当のポジティブとはなんなのか。
「登録さえすれば自動的に指名が入る」という思考こそ本当のポジティブである。「ただ存在するだけでお金を払って会うだけの価値が自分にはある」と思えるのは自己肯定感の高さだと思うが、それが良い方向に作用していると言えるだろうか。
僕はネガティブで自己肯定感が低い。ただ存在しているだけでは自分に興味を持ってくれる人なんているわけがないと思っている。これだけ多くのキャストがいる中で、ありきたりな事をしていても「会いたい」と思ってくれる人なんていやしない。だからこそ、少しでも目に付くように長めの日記を書いてみたり、他の人があまり書かなそうなことを書いてみたりするわけ。
「登録さえすれば自動的に指名が入る」というポジティブな考えで何もせずに指名が入らず3ヵ月で辞めていく人も多い。その中で僕は、ネガティブだからこそ興味を持ってもらう為に自分なりの工夫をしてそれなりに続けられている。ポジティブであるかネガティブであるかは、たいした問題ではない。それをどう解釈して、パワーにするかなのである。
つまり僕が言いたいのは、「自己肯定感の低い自分」を否定しなくても良いということ。「自己肯定感を高める方法」を考えるのも良いが、「自己肯定感の低い自分をどのように解釈するのか」という考え方があっても良いだろう。
無理してポジティブになろうとするよりも、ありのままの姿を見せて欲しい。自己肯定感の低い性格も込みで、もともと特別なオンリーワンなのだから。
…あれ?奴らを否定するつもりだったのに、いつの間にか肯定してしまっている!?
結局のところ何事も解釈次第なのよね。僕にとって「ひねくれ者」とは、その解釈の選択肢を広げることだと思っている。「ひねくれ者」というどちらかと言うとネガティブな性質も、このように解釈次第ではポジティブな要素になり得るわけ。ネガティブとかポジティブとか線引きをすること自体がナンセンスなのかもね。
でも顔が良い奴は、存在するだけで価値があるのかもねッ!まったく!!やってられんよな。