写メ日記
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2024年10月28日 02:05 の投稿
癒されたいですか?寄り添って欲しいですか?…そうですか。そういう人が見つかると良いですね。
僕は「癒します」「寄り添います」とは言いません。性感マッサージって何するんですか?と聞かれれば、何をするのか具体的に文章で説明することができます。癒すって何をするんですか?寄り添うってどうするんですか?僕には答えられないので。文章化できない事は言わないようにしてます。
そもそも現時点で「貴女」がどこの誰なのかも知らないのに、癒すも寄り添うもないと思ってます。寄り添いたいという気持ちはあるけれど、でも誰が相手でも寄り添えるわけではないのです。もし「貴女」の抱えているものが宗教的・政治的なものであれば、たぶん癒せないし寄り添えません。
僕はヴィーガンではない。でもヴィーガンに寄り添う事は出来ます。だがもしケンタッキーでデモ活動して他の人に迷惑をかけるタイプのヴィーガンだとしたら、寄り添わないし、寄り添えないし、寄り添うつもりもありません。線引きは確実にあります。無条件に寄り添うと言う事は、相手は誰でも良いということであって、僕の考える「寄り添う」とはむしろ対極にあることなのです。これを読んでる「貴女」がどこの誰なのかも分からない今の時点で「寄り添います」だなんて迂闊な事は言えません。
そもそもこれを読んでいる「貴女」なんて存在しないのかもしれません。「無」を癒す事も寄り添う事も不可能ですよね。
僕が思うに、「寄り添う」とは、まず誠実であること。その為に僕は、不特定多数の架空の「貴女」に対して根拠もなく「寄り添います」などと言うつもりはありません。お会いして顔を見て名前を呼んでお話して、生身の貴女と真正面から向き合う事が僕にとっての「寄り添う」という事です。「寄り添います」と言わないことこそ、僕の寄り添い方。
ところで。子豚カフェに行ったことはありますか?癒しが欲しいのであれば…。寄り添って欲しいのであれば…。行ってみるのをオススメします。人懐っこいとは聞いていたけれど、想像をはるかに超えるイチャ甘でした。
僕は猫が好きなので猫カフェには何回か行ったことがあります。兎カフェも1度行きました。でも豚カフェは他では味わえない感動があります。普通に座っているだけで、子豚ちゃん達が寄ってくるのです!1匹寄ってきたら釣られて何匹も来ます。最大で8匹くらい体の上に乗ってました。重かったけど可愛かったです。
猫カフェでは自分から猫ちゃんを触りに行って、でもそっぽ向かれるのが普通です。まぁ猫様はそれはそれで可愛いので良いのですが。子豚カフェの場合、僕は座った状態で全く動きませんでしたが、滞在30分のうち29分18秒くらいは常にずっと子豚ちゃんが傍にいてくれました。とても癒されたし、(物理的に)寄り添ってくれました。めっちゃオススメ!
あと久しぶりにサイゼリヤの「プリンとティラミスクラシコの盛り合わせ」を食べましたが美味しかったです。
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2024年10月26日 03:05 の投稿
「テクピになりたければガシマンせよ!」僕はテクピになるつもりはないので、やらないけど。昨日の日記を書いている時に思いついたのである。とても画期的で斬新な意見だ。今の時点では全く共感されないだろうが、まぁ説明を聞いてみようじゃないか。なかなかどうして、説得力のある説だと目から鱗が落ちるかもしれない。
僕はこの仕事をしていて常々感じているのは「女性は我慢してしまう」ということである。嫌なことがあっても、それを口に出して言うよりも、胸に秘めてストレスをため込んでしまう。ましてやそれが夜の事となると、まず間違いなく不満を相手に伝える事はしない。
口コミを見ればその傾向は顕著で、どれも10点満点ばかりである。だが実際にはそんなわけがないのだ。不平不満があっても、それを口コミに書く人は極端に少ない。吐き出すことによってストレスを解消するよりも、無かったことにして忘れてしまいたいと思う女性が多いのだ。
ガシマンをすることで10人中9人の人から「痛かった」「雑に扱われた」と不満を抱かれても、それを口コミに書かれることは滅多に無い。そして10人に1人は、「より強い刺激」を「より大きな快感」として受け取れる体質の女性がいるのだ。その人はきっと「今までで一番気持ち良かった」と感じ、絶賛する口コミを書くだろう。そうして100人の相手をすれば、10件のテクニックをべた褒めする口コミが蓄積される。一見するとまるでテクピのようではないか。その裏には90人の女性の不満があったとしても、口コミとして表面化することはほぼない。
夜の事に関して、負のフィードバックがほとんど行われないのは由々しき問題である。良かった時は褒められ、悪かった事については何も言われない。そのことを理解していないと、男側はどんどん勘違いしてしまうのだ。こうして謎にテクニックに自信を持つ男が蔓延っていくのである。
女性に話を聞くとセックスが上手い男なんてほとんどいないのに、世の中の男性の多くはそのことに無自覚で相変わらず勉強不足で、むしろ自分は上手いと自信を持っている。特にこの仕事をしている人は自信があるから始めたという人も多いだろう。だがその自信は、一部の女性の不満を蔑ろにして、相性の良かった女性からの誉め言葉を都合よく解釈しているだけなのかもしれない。
少なくとも僕は女性のことを知れば知るほど、「我慢してしまう」という性質への理解が深まり、負のフィードバックが無い事に対して危機感を覚えている。誉め言葉は素直に受け取るようにしている。だが「不満を言わない」=「不満が無い」というわけではないので、もしかしたら言えないだけで何か不満を抱えているかもしれないという思いは常に頭の片隅にチラついている。たぶん僕がテクニックに関して自信を持つことは今後も無いのだろう。
僕はありがたいことにたくさんの口コミを頂戴している。でも件数のわりに、性感に関する口コミが少ないように思う。それは「より大きな快感を与えること」よりも、「痛みや不満を与えないこと」を優先しているからなのかもしれない。僕は「当たり障りのないこと」が苦手でプロフや日記では好き勝手に書いているけれど、初回の性感については「当たり障りのないプレイ」から入ることが多い。何回か会って仲良くなったらその限りではないけれど。
ということで「テクピになりたければガシマンせよ!」という新説である。これは女性や女風への理解度が高い、なかなか興味深い意見ではないだろうか。僕はテクピになるつもりはないので、やりませんが。
ところで、飲み会で「俺、ドSだから笑」って言う人と仲良くなれたことがないんだけど、どうすればアイツらと仲良くなれるの?別に仲良くなる必要ない?それもそうね。
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2024年10月25日 01:05 の投稿
たまには女風らしく性感に関する日記でも書いてみよう。
プレイ中に女性が言う「やめて!」にはいくつかの種類がある。やめて!(もっとして)やめて!(本当に一回やめて)どちらの「やめて!」なのかを正確に見極められる人が「上手い人」なのだろうか?
気持ち良い感覚がずっと続くのであれば、それはさぞ凄い快楽なのだろう。ましてや女性はM気質であると自覚している方が多いから、自らの意思に反してずっと快感が続くのであれば、より一層興奮するに違いない。そのため、「やめてって言われてもやめないよ?」みたいな少し強引なプレイに憧れを抱いている人は非常に多い。そしてそういった女性に刺さるように、「やめて!」と言われてもやめずに、気持ち良い状態をより長く継続させることが良い事だと思っている男性もたくさんいる印象だ。
僕の考えは少し違う。「やめて」と言われれば、基本的にはわりと素直に一回やめるようにしている。例によっていつもの逆張りではあるけれど、ちゃんと理由を文章化してみようではないか。
「やめて!の意味を見極められる人」=「上手い人」だとしよう。そこまではまぁ認めても良い。で問題なのは、それはちゃんと答え合わせしてるの?ってことだ。
「貴女はプレイ中にやめてと言いましたが、やめないでという意味だと私は解釈して続けました。正解ですか?」ってちゃんと聞いたの?「私はプレイ中にやめてと言いましたが、あれはやめないでという意味だったので、やめないで続けてくれて非常に気持ち良かったです」という言質は取れたの?もし仮に答え合わせができていたとして、女性側がそれを本音で言っているってどうやって判断するの?
僕はこの仕事をしていて、つくづく痛感するのは「女性は我慢してしまう」ということだ。特に夜の事となると、ネガティブな本音を話してくれることはほぼほぼないと思っている。それは口コミのページを見れば明らかだ。10点10点10点10点9点10点8点10点…って、そんなわけがないのである。実際には不満があったり嫌な思いをしていたとしても、女性はそれを我慢してしまうし、ましてや口コミに書いたりはしない。
「やめて!(やめないで)」と言われてやめなかった場合、女性はより大きな快感を得て男を褒めるだろう。「やめて!(本当にやめて)」と言われてやめなかった場合、女性はその不満を胸にしまって男には何も言わないだろう。男性側には、「やめてと言われてもやめないこと」に対する成功体験のみが蓄積され、「本当はやめて欲しかったのに」というネガティブなフィードバックは一切行われない。その結果が「やめてって言われてもやめないよ?」という自称ドSが爆誕するのではないだろうか。
少し踏み込んだ話をするならば、傾向として外イキした時の「やめて!」は本当にやめて欲しい場合が多い気がする。中イキの場合はそのまま連続してイケる人もいるので、やめないでと思っていることも多い。だが正直に白状するけれど、今イっているのが外なのか中なのかなんて僕には分からんのよ。イってる当の本人ですら分かってなかったりするのに、僕に分かるわけないじゃない。「分かる」と言う人もいるのだろうけれど、それもやっぱり答え合わせをする方法がないのだから、厳密には「分かっていると思っている」にすぎない。
僕は「やめて!」がどちらの意味か、常に正しく判断することは不可能だと思っている。やめないことによって得られる男性にとって都合の良い成功体験よりも、「本当はやめて欲しかったのに」という女性の不満を無視するリスクを回避したい。なので「やめて!」と言われれば一旦様子を見ることが多い。より高い最高点数を目指すより、最低点数を引き上げてアベレージを高めたい。その結果として一部の人からは物足りないと思われたとしても、誰に対しても「不快な思いをさせないこと」を最優先したいのだ。
僕は日記やプロフは「刺さる人に刺され!」って思って書いてる。でも性感については「広く浅く多くの人にそれなりの満足を」ってスタンス。「やめて(本当にやめて)って言われてもやめないよ」という憐れな勘違いテクニシャンになるリスクを完全に排除できないので、やめてと言われたらやめる。僕は別にテクニシャンになれなくていい。あ、でも回数を重ねて信頼関係ができればその限りではないよ。
また長々と面倒臭い日記を書きやがって!目障りだからやめて(本当にやめて)だって!?やめてって言われてもやめないよ?
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2024年10月23日 01:05 の投稿
焼き鳥はタレ派ですか?塩派ですか?そんな問いかけは不毛だ!「場合による」「気分による」としか言いようがない。
白米があるならば、タレが良いかもしれない。飲み物によっては塩が良い時もある。そういうものではないだろうか。
サディストか、マゾヒストか。これも「その時の気分による」「相手次第」である。僕はほとんどの人が両方の性質を持ったスイッチャーだと思っている。SにせよMにせよ、本当にどちらかに偏った人は実際にはかなり少ない気がする。自己申告のSだのMだのというのは、Sだと思われたいMだと思われたいという意思表示の場合が多い。
僕はかつて高所恐怖症を自称していたが、自分で言うのを辞めたら高所恐怖症も無くなった。人は演じる生き物だ。与えられた役割を内面化してしまう。つまりSであると言う事によって、その発言との整合性を取る為にSな自分を演じてしまうのである。
Sが主導権を握っている格上でMはそれに従う存在というイメージがあるから、だいたいの男はSであろうとする。だが実際にSであるかどうかは重要ではなく、Sというラベリングを自己成就させているケースは多い。
本当にSならば良いのだが、自称Sの中には自分本位のワガママな振る舞いを「サディスト」という言葉で正当化するタイプの人もいる。逆に全てを人任せにして受動的であることをMと称する人もいる。それはちょっと違う気がする。
自己申告のラベリングでキャラを固めるのも良いけれど、それによって選択肢を狭めているとすれば勿体ない。そしてこれらのラベリングは「平凡」への反抗であり、「個性」への盲目的な憧れを秘めている。だが実はその「個性」への羨望こそ、他ならぬ「平凡」の証明だったりする。かつて僕は「誰よりも無個性な人間になりたい」という歪んだ願望を抱き、だがその考え方こそ他ならぬ「個性」であるという事実に打ちのめされたことがある。
そんな僕が珍しく自らにラベリングしたのが「ひねくれ者」である。ひねくれ者であることに憑りつかれていると感じる時もある。正直、自分でも面倒臭いを思う時もある。ひねくれ者であるが故にひねくれ者であることからもひねくれて、ひねくれ者でないふりをする。でもそれをこうして文章化することによってそこからもひねくれなければならない。そうして僕は結局ひねくれ者を自称する。もはや自分でも思考の到達点が迷子で、訳がわからない。
ちなみに僕は味に対するこだわりがあまりないので、食感が独特な食べ物が好きかも。焼き鳥だと砂肝とか鳥皮が好き。むね肉もも肉の違いはあまり分かっていない。
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2024年10月20日 02:05 の投稿
皆さんは高い所はお好きですか?僕は元々高所恐怖症を自称していたのですが、途中で辞めました。辞めようと思って辞められるものなのか?と思われるかもしれませんが、病院で診断を受けた正式な恐怖症でないのであれば、辞められると思います。
僕は小学5年生の時に学校の行事で東京タワーに行ったのですが、思いのほか自分以外にも自称・高所恐怖症が多いことになんか萎えちゃったんですよね。ひねくれ者としては、皆が同じことをしていると冷めるというか。所詮ほとんどの高所恐怖症って自己申告でしかないし、言ったもん勝ちだよなぁって思ってしまったのです。そして二度と高所恐怖症とは言わなくなったのですが、するとどうでしょう。不思議なことに高い所への苦手意識はなくなったのです。ひねくれ者の矜持によって、高所への恐怖を克服しました。そういうものです。
「恐怖」とは「死ぬことに対する警鐘」です。人間は空を飛べず肉体も脆弱なので、高所から落ちたら死にます。落ちたら死ぬ高さに対して恐怖を感じるのは生物として当たり前のことなのです。それを高所恐怖症と自称して怖さとして認識するか、本能的に普通の事としてスリルと解釈するか。本人の意識によってコントロールできることなのかもしれません。
そんなわけで僕は高所恐怖症というわけではないのですが…。高い=怖いという人間の本能に刷り込まれた恐怖を久しぶりに思い出させてくれた映画を紹介します。「FALL/フォール」という作品です。Amazon Prime Videoで配信中。
山でのフリークライミング中に夫を落下事故でなくしたベッキーは1年がたった現在も悲しみから立ち直れずにいた。親友ハンターはそんな彼女を元気づけようと新たなクライミング計画を立てて現在は使用されていない超高層テレビ塔に登ることに。老朽化して不安定になった梯子を登り、地上600メートルの頂上へ到達することに成功。しかし梯子が突然崩れ落ち、2人は鉄塔の先端に取り残されてしまう…。
2人の女性が地上600メートルの細い塔の上に取り残された!!塔の上は電波も届かず救助は呼べない。食料もない。さぁどうする!?というワンシチュエーション物のサバイバルスリラー。高所恐怖症発狂必至映画。
塔の上に取り残されたは良いけれど、そこから映画としてどうするのか。ワンシチュエーション物は「変わり映えしない画」という問題を抱えているが、その「変わり映えしない画」が地上600メートルなので恐怖そのものなのである。話を展開させ難いシチュエーションではあるが、想定しうる最悪の展開は一通り全て起きるので最後までスリリングだ。
主人公の親友であるハンターは近年の映画でよく見かけるSNS中毒でフォロワーを増やすことに必死なパリピ系の女性。だがこの手のキャラが酷い目にあって「ざまぁみろ!」っていう映画ではないのが驚き。正直、いけ好かないインフルエンサーを最悪なシチュエーションで苛め抜いてニヤニヤするタイプの映画だと思ってた。「状況を悪くさせる為の舞台装置として配置されたビッチ」と言うキャラは映画でよく見るけれど、ハンターは意外とそうではないのが新鮮。…まぁビッチではあったけど。パリピ系キャラは「こんなアホどうでもええわ」となりがちだけど、ちゃんとした行動原理があるので不快感が少なく素直に応援できるキャラ。むしろ状況に流されるだけでいつまでもウジウジしている主人公の方がイライラするかも。ただそんな主人公もずっとそのままというわけではなく、危機的な状況に立ち向かう中で過去と向き合い、人間的な成長を描くしっかりした脚本になっているのが憎たらしい。
もっと頭空っぽなパッパラパーB級映画だと思ってたのに!普通に面白い映画じゃないか!
ただ終盤にちょっとした「捻り」があるんだけど…。ぶっちゃけそれは想定の範囲内。まぁまぁ映画を観ている人ならこの「仕掛け」は真っ先に思い浮かぶんじゃないかな。「どんでん返し」って演出でもないから、展開が読まれることも想定した上での脚本なんだろうけど。
ラストはちょっと盛り上がりにかけるかな。僕は映画を観ている時に生意気にも「僕ならこういう展開にする!」とか考えながら観ちゃうんだけど、正直ラストに関しては僕の妄想展開の方が面白い自信がある笑妄想展開を書いた質問箱をXに投稿しているから、この作品を観たことがある人やネタバレを気にしない人は見て。絶対こっちの方が面白くない?【東京/千葉萬天堂】あきら Xアカウント
とはいえ高所恐怖症の人にこそ見て欲しいオススメの映画です。
そういえばジェットコースターが落下する際の無重力感に恐怖を感じて股間が縮み上がる感覚のことを「タマヒュン」と表現するけれど、女性の場合はどういう感覚なのだろうか?