写メ日記
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2024年8月8日 21:05 の投稿こんにちは、純士です。さて今日は、「気になっていること」です。僕が気になっていること、じゃないですよ。これを読んでくれている方が、です。「なんかモザイク越しで今一つわかんないんだよな」「本当に平井堅に似ているのかな」「あの髭は柔らかいのかな」「ハーフ顔ぽいけどちゃんと日本語話せるのかな」いろいろ憶測が飛び交っていると思います。DMを送りたいけど大丈夫かな…そんな方のために!今日は!特別に!8月8日なので公開します。本当の秋山純士を。いやちょっと待って。今までの日記は嘘だったの?安心してください。日記の秋山も本当です。ただ、日記は今の自分を知ってもらうために書いているのではなく、今の自分にある持ち物を小出しに表現しているだけ。日記に書いてあることは、それは秋山から発信された一部の情報でしかないんです。秋山は昔寿司職人でしたが、今は寿司は握らない。秋山は昔野球少年でしたが、今はバットを握らない。でもその過去の経歴が、今の秋山の一部にはつながっている。でもその情報だけでは今の秋山は判断できない。結論を言うと、秋山を知るには、秋山に会うしかないんです。この日記を読んでくれている人がどのくらいなのかは、実際にアップしてみないとわからないですが、この風変わりな日記を読んでくれている人がいることに日々感謝しております。ここで自分にできることは、出会いのきっかけをつくること。実際会ってみたら、イメージと違った!となるかもしれません。でも僕はそれでいいと思っているし、イメージのままだった!では逆につまらない気もする。(悪い意味でイメージと違ったらよくないですけどね)僕が目指しているのは、例えば髭の男性はNGと思っている方が、僕の日記を読んで髭が生えているけど会ってみようかな、となってくれればいいな、と思っているんです、本気で。(生理的に無理、を覆すのはとても難しいことです)そしたら、その人にパラダイムシフトが起こるかもしれないわけですね。そして、世の中の髭を生やしている日本男児のステータスアップにもつながるわけです。いいことづくめですね。人は、見た目の印象はもちろん大事ですが、考えていることでどういう印象を与えられるかも大事。やっぱり、男は総合力、ということでしょうか。
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2024年8月6日 21:05 の投稿先日、秋山メンテナンスデーだったので、いつものバーバーへ行き、今回はシェービングとフェイシャルとトリートメントをチョイス。バーバーに行くのに髪を1ミリも切らないという、ちょっと変わった秋山です。いつものことながら、施術中は爆睡。この10分くらいの睡眠が3時間に値するくらいの深い睡眠。ということで今回は「プロの技術」というテーマです。秋山、料理人だったのにも関わらず、手先が不器用、生き方も不器用なのです。バーバーの最後の仕上げは、そうスタイリング。これがまあ、再現するのが難しい。その日はいいじゃん!という仕上がりでも、翌日自分でスタイリングすると、なんか違う!そして髪をいじり過ぎてしまう。結果的にはプロとは違う仕上がりになる。同じ整髪料を揃えて、見よう見真似でやってみても、である。改めて自分の不器用さとプロの技術のすごさを痛感した秋山でした。でも思えばプロは毎日のように何十人の頭を触り、スタイリングしている。自分は毎朝、自分の頭をスタイリングするだけ。そりゃあ、勝てるわけがない。でも、やはりプロに近づけたい。昨日が50点なら今日は51点の仕上がりを。不器用ながらも、プロの技術に少しでも近づけようとする、一見無謀にも思える行為を延々と繰り返す、それが秋山です。いつしかプロが思いもしないような新たな発見をするのではないかという、淡い期待を込めながら。
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2024年8月4日 23:05 の投稿遠慮する。謙虚でいる。日本では特に、これらはある意味「美徳」とされている風習がある。外国の方から日本人のこういった人間性を称賛されることもある。どちらのことばも、「控えめ」というニュアンスがある。しかしこのことばには違いがある。遠慮。それは良くも悪くも自分を押し殺してしまうということ、裏を返せば自分の自信の無さを意味する。謙虚。それは相手に配慮しながら、うまく自己主張すること。自分の自信を上手に表現することだ。遠慮と謙虚を混同すると、ともすると自分のその行動がどちらなのかがわからなくなる。本来自分の主張をする必要があるときに、「遠慮」をすることはある意味で相手のことを考えていない。誰かとコミュニケーションをとるときに、無駄な「遠慮」は不要だ。両者の関係性を深めることを阻害するのが無駄な「遠慮」である、と個人的に感じる。もちろん相手を不快にさせるようなことばは使うべきではない。そこは「大人の謙虚さ」を持って接する。日本人の男として、ラフに、謙虚に生きたいものだ。
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2024年8月2日 21:05 の投稿誰かとごはんを食べに行くとき、「お肉を食べに行こう」「魚系がいいな」「イタリアンが好き」こういうやりとりはよく聞くが、「野菜を食べたい」こういうリクエストを出す人はほとんどいないような気がする。つまり野菜は食べものの中では主役になりにくいポジションなのである。でも実は秋山、野菜がかなり好きなのである(ベジタリアンではない)。というか野菜(+米)の味にはうるさい。留学を終えて日本に帰国してから食べた「かぼちゃの煮物」有機農業発祥の地で食べた、ただ茹でただけの力強い「小松菜」の味学生時代農業のバイトをしていた時に食べた糖度マックスの「新玉ねぎの味噌汁」学生時代牛の世話のバイトをしていた時に食べた炊き立ての「新米(茨城産)」本来主役にはあまりなりえないこれらの食の感動は、いまだに自分の中に生き続けている。最近、ランチで食べた担々麺にのっていた絶妙な茹で加減のチンゲン菜を食して、こんな記憶が呼び起こされたのである。都会にいて感じることは、野菜や米を美味しいと感じる瞬間が非常に少ないということ。野菜が美味しいイタリアン、お米が美味しい和食屋さんがもっと増えてほしいと切に願う秋山である。(いや、普通に美味しいのだろうが、その美味しさをもっと大切にしてほしい)
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2024年7月31日 20:05 の投稿お客様に接すると書いて接客。長年接客業に携わってきた経験もあってか、「良い接客」とはどういうものか、たまに考えることがある。例えば高いホテルを利用した時、そこには洗練されたスタッフの丁寧さを感じたり、人によっては近年よく耳にするようになった「ホスピタリティー」を感じることもあるだろう。しかし先日、ある店舗に行ったときに接客を受けて、これとは違う新鮮な感覚を覚えた。ことばで表現すると、「柔らかい」接客なのである。丁寧なんだけど、度を過ぎないどこか自然な話し方。自然なんだけど、顧客との間に適度な距離感がある。適度な距離感があるんだけど、どこかフレンドリーさがある。ちなみにこのお店、都内に何店舗か展開しており、複数の店舗で買い物をしたことがあるのだが、どの店舗に行ってもこの雰囲気を感じた。ある意味で究極の接客とは、お客様にリラックスしてもらい、サービスを受けてはいるんだけど、そこにわざとらしさがなく、サービスを受けているのを忘れるくらい、自然体で接することができる雰囲気づくりをする、ということなのかもしれない。思えば昔、自分が働いていた寿司屋も、知る人ぞ知る高級店ではあったが、「敷居の高さを感じさせない」接客を心がけていた。出すものは本物、でもお客様には最大限くつろいでもらう雰囲気づくりをする。肩肘張った状態では美味しいものも美味しいと感じる余裕がなくなるのだ。「肩の力を抜け」野球をやっていた頃によく言われたことばである。でもそうやって肩の力を抜こうとしても簡単に抜けるものではなかった。小手先のテクニックではない「柔らかさ」。顔の濃さを変えることは困難だが、自分の醸し出す雰囲気を柔らかく変えるのは、時間がかかることではあるが、できると思っている。人として、FIRST CLASSのキャストとして、柔らかい人間でありたい、と思う。