写メ日記
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2022年5月30日 17:15 の投稿ついに、忍君の卒業が決まりました。
私にとって忍君との出会いは一生の宝物で、これからも互いに励まし合い成長できる関係性であることに幸せを感じます。
皆に弟扱いされてしまう愛されキャラですが、チームを盛り上げて牽引していく頼もしさがあり、さまざまな才能を披露して私たちを楽しませてくれました。
前向きな卒業ではありますが、忍君の復帰を信じていたお客様はさびしい気持ちを抱えられているのではないでしょうか。
そのさびしさを解放していくことが私の役割のひとつであり、プロ意識を持ってお客様と向き合い、エクスタシー東京の発展に繋げていきたいと思います。
ということで、忍君、卒業おめでとうございます。
たまには一緒に遊んでね。
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2022年5月23日 14:37 の投稿
改めて振り返ると、この日が転換点だったように思う。
意識の拡散が収まらず心の消耗が激しい状態で一日が始まった。
このタイミングを見計らうように老師がさらに追い込んでくる。
朝の法話の後、初めて作務を命じられる。
食堂に通じる廊下の掃除を指示された。
「用心深く、ゆっくりと、ただ掃除しなさい。」
掃除の途中で老師が質問してきた。
「今何をしている。」
「額縁を拭いています。」
突然ピシャリと頬をひっぱたかれる。
頬に平手打ちされたのは人生で初めての経験だった。
老師の行為が意図的なものであることはすぐにわかった。
無駄のない慣れた動作で、綺麗な音までした。
「していることそのものになり切れていない証拠だ。頭で考えてばかりで、自分自身を放ち忘れる一点がまだはっきりしていないな。
今、何をしている。」
私はさっと掃除に戻る。
「それで良い。ただ一心にやるだけですよ。体はその場に任せて淡々と流れていればいい。掃除が終わったら禅堂に向かいなさい。」
その夜、入浴を認められた。
4日ぶりに体を洗うことができる。
風呂は壁の外側から薪を焼きながら沸かす原始的なつくりだった。
老師自ら火に薪を入れてお湯を沸かしてくれる。
「お前のために熱めに焚いたよ。これも修行の
ひとつだと思って一心不乱に入浴しなさい。」
確かにめちゃくちゃ熱かった。
熱さを堪えて全身を湯に浸ける。
「熱いだろ。ちゃんと肩まで浸かるんだよ。」
壁の外から老師の笑い声が聞こえる。
私はお湯に浸かりながら泣く。
突然涙が溢れて止まらなくなった。
老師にバレないよう声を殺しながら泣いた。
心も体も熱いお湯に溶け出していくように感じられた。
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2022年5月10日 17:32 の投稿
昨日よりも意識が拡散し、一呼吸に集中することができない。
息苦しさまで感じる。
時折体が震え、額から汗が垂れる。
今まで無意識に目を背けてきた真の自分自身について徹底的に向き合わされる苦しい時間が始まった。
坐禅中に次々と自責の念に駆られるようになる。
真の自分自身は、傲慢で自己中心的で臆病で他人を傷つける非常に残念な人間だった。
そこには誠実さや優しさや賢明さのかけらもなかった。
そのようなフラッシュバックが耐え難いほど辛かった。
坐禅以外の行動も注意散漫になる。
ここでは食事のときもただ食べることに心を置く「食事禅」という修行となる。
咀嚼している時に箸を動かそうものなら、すぐさま老師が一喝する。
老師は疲弊しきった私の心を見逃さない。
これまでに何千人もの参禅者と向き合ってきた。
何もかもお見通しである。
「拡散が収まらず、すべてが隙だらけになっとるね。みんな3、4日目が一番辛いんだよ。今は心のゴミがわんさか出る時期。酷い風邪をひいた時、毒を排出するために体が高熱を出すでしょう。それと同じ。これから熱のピークを迎える。きついのは当たり前。とにかく耐えなさい。一呼吸に帰ることで救われる。わかったか!」
「はい!」
声を振り絞り、禅堂へ向かう。
「なんじゃその間の抜けた行儀は!」
今回は一喝だけでなく、平手で思いっきり背中を殴られる。
10秒ほど呼吸ができずに苦しみ、その後痛みを感じるとともに新鮮な酸素が肺に入ってくる。
久しぶりに深い呼吸を取り戻し、視界が広がる。
その夜の坐禅も相変わらず意識が拡散する。
幻覚まで見る。
気づいたら暗い海の中だった。
肌に冷たい海水の感触をありありと感じる。
音は無い。
光は僅かで方向が全くわからない。
ただし自分自身の感情はフラットで、その状況をただ感じているだけだったように思う。
意識が現実に戻る。
そこは蝋燭が温かく灯る夜の禅堂で、周囲を見渡すと他の2人の参禅者がそれぞれ坐禅していた。
不思議な体験だったが、改めて振り返るとそれは禅定の兆しのひとつだったのだろうと思う。
暗い海の水圧や海水の感触は、心地よい記憶として皮膚に残っている。
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2022年4月28日 17:06 の投稿
朝5時前に起床し歯を磨き、顔を洗い、すぐに禅堂へ向かう。
禅堂は長方形で12畳くらいの広さがあり、中央奥に聖僧様の尊像が配置されている。
尊像をコの字型に囲むように畳が敷かれ、等間隔に座布団が敷かれている。
座布団の上には腰痛防止の丸いクッションが置かれ、参禅者たちはそこに腰掛けて壁側を向いて坐禅を行う。
畳以外の床は木張りとなっており、どこまでも完璧に掃除されていてツヤがある。
窓から太陽の光が差し込み、たくさんの鳥たちの声が聞こえる。
今朝は呼吸に集中することができない。
5日間の有休を取得するため、先週までいつもより慌ただしい日々を送っていた。
そしてこの参禅を終えた後も、慌ただしい日々を送ることになるだろう。
多くのさまざまな確認作業が待っている。
猫たちは元気にしているだろうか。
シッターさんにお世話を依頼しているが、私が帰って来ないことに何かしらの感情を抱いているはずだ。
そのようないくつかの不安要素が頭の中に止めどなく入り込んでくる。
朝食後、老師から助言をいただく。
「人間の体は本来、動くことに適した構造になっている。何時間も同じ姿勢で座り続けることは自然の摂理に反しており、体にも脳にも悪影響を及ぼす。雑念を制御することも難しくなる。座ることに疲れたらお茶でも飲み、楽な体勢に切り替えなさい。眠くなったら潔く昼寝しなさい。気力・集中力がなくなったら形だけの坐禅となり全く意味がない。30分なら30分と決めて、その間は命懸けで一呼吸に徹しなさい。」
老師の指導法は、とにかく「悟り」への一点突破。
禅堂ですることは「一呼吸を守ること」のみ。
「一心不乱に呼吸しなさい。」
「呼吸そのものに成り切りなさい。」
これらの言葉を何度言われたことか。
とにかく老師から言われたことをその通りにやるしかない。
しかし、一見簡単そうに思える「一呼吸」に途方もなく苦しむことになる。
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2022年4月26日 16:54 の投稿
4月17日、日曜日、夕方。
広島空港から竹原駅へバスで移動し、入山前最後の食事と入浴(しばらく入れない)を済ませる。
竹原駅からお寺の最寄駅である忠海駅へ行き、事前に指示されていた通り、お寺に電話をかける。
すぐに老師が電話を受ける。
「今、忠海駅に到着しました。」
「こちらまでの道順はわかりますか?」
「はい、わかります。これから向かいます。」
境内は電子機器の持ち込みが禁止されているため、駅構内のコインロッカーに携帯電話とヘッドフォンを収納する。
そして、歩いてお寺へ向かう。
お寺は駅から徒歩10分の山の中腹にある。
何週間も前からGoogleMapで何度も確認していたので、迷わず目的地に到着する。
お寺の裏手にある木造りの簡素な建物が坐禅道場兼宿舎の施設である。
私はここで約5日間過ごすことになる。
時刻は19時。
老師がドアを開けてくれる。
「はじめまして。○○と申します。この度はよろしくお願いいたします。」
「遠くからよくいらしてくれました。今は夕食が終わったところです。あなたもすぐに禅堂へ向かいなさい。」
私のほかに50代くらいの男性の参禅者が1名、すでに禅堂で坐っていた。
明日はさらにもう1名、兵庫県から女性の参禅者が入山する予定とのこと。
ここでは、食事、朝課、休憩以外は朝5時から夜10時までひたすら坐禅をする。
最初の3日間は入浴もできない。
老師から坐禅のやり方について簡単にレクチャーしてもらう。
最初の呼吸はは比較的早いペースだった。
初回の坐禅では、すぐに深い瞑想状態に入り、長時間頭を空にすることができた。
後で老師に訊いたところによると、初日の高揚感と旅の疲労、自宅とは異なる非日常的で神聖な空間が深い瞑想状態をもたらしたという。
22時半に切り上げ、宿舎へ入り、春の夜の虫たちの声を聞きながら眠りについた。