
写メ日記
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2025年1月22日 03:05 の投稿同じ職場で働いていた同僚がいつの間にか姿を消す建前上の理由は人それぞれあるにせよ本当の理由はまた違った部分にあるはず新しい何かを求めて先を見据えてその環境を離れたのかもしくはその環境に先行きが見えずに離れたのかいずれにせよ将来に先行きが見えない不安を抱える人は多い社会全体に閉塞感が漂っていたとしてももしその環境に先を見せてくれる人間がいたらその人の未来を描くヒントになるような人間がいたらただただ業務を教えてあげたり指示を出すだけが上司の仕事ではないその仕事の本質的な意義は何かときには自分のその仕事に対するスタンスを部下に語ってあげることも必要なのかもしれない僕自身年齢を気にすることはないが40代の一人の人間としてそしてFIRST CLASSでは一人のレギュラーキャストとしてバナ〇の布教活動をするだけでなくときには同じ環境にいる人に先を見せてあげられる存在になりたい
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2025年1月19日 21:05 の投稿玄関のドアをあけて外に一歩踏み出した瞬間そこから先は誰かが見ているかもしれない世界僕みたいなゴリ〇でない限り外の世界を裸で歩くわけにはいかないバナ〇を頬張りながら歩くわけにはいかない周りの人の目がある人には社会では見られてはいけない己の一面がある知り合いだからこそ見せられない一面仲が良いからこそ見せたら恥ずかしい一面がある異性ならなおさら日常生活を送るうえでの人との信頼関係と性における信頼関係は別物なのか理性を失えば社会では生きていけないでも理性を失った瞬間こそ動物的本能が開花する瞬間ともいえる理性をなくすことへの後ろめたさは誰にでもあるでもときには人目を憚らず涙を流すようにこの人になら何でも曝け出せるという感覚をもつことができればそれは非日常的なカタルシスにつながるのかもしれない
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2025年1月18日 20:05 の投稿真夜中に仕事を終えて誰もいない自宅に帰宅すると真冬の寒さが寂寥感に似たものを覚えさせる瞬間がある人と会っているときの自分人と会っていないときの自分外向的な自分と内向的な自分ひとりの人間には陰と陽二つの要素が入り混じっているパートナーがいれば誰かと常日頃一緒にいれば内向的な自分は消えるのか孤独感は消えるのか必ずしもそうではないような気がする人に愛されていても自分が人を愛していなければ心が奪われていない冷静な自分を感じ取ってしまう誰かに夢中になるそこにはその状態になっている自分にすら気づいていないそれが孤独を埋めるということなのかどうすれば人に愛されるかこう考える人は少なくないはずしかしどうすれば心から人を愛することができるかこう考える人はどれだけいるのだろう真に愛することのできる人がこの世の中にどれだけいるのだろう愛される努力もさることながら愛する努力も看過できないそして誰かを本当に愛した先には孤独感は存在しないのかもしれない孤独を愛する人は孤独を愛しているのかそれとも孤独から愛されているのか孤独を愛するのも一つの選択肢でもそれが誰かを愛することに置き換わった時その人の人生観を変えるパラダイムシフトが起こるのかもしれない
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2025年1月17日 20:05 の投稿昨日、綾瀬さんのルーキー卒業のお知らせがありましたね。2025年初のレギュラーキャスト誕生ということで、非常に喜ばしく思っております。実はまだ僕自身は直接綾瀬さんとの面識はありませんが、FIRST CLASS(裏)広報部長として、日曜日の定期キャスや日記での発信をチェックしながら、綾瀬さんのお人柄を勝手にイメージしておりました。入店当初から話題になっていた綾瀬さんですが、定期キャスを定着化させ、非常に落ち着きのある癒し系の声で、しっかりとご自身の考え方を発信されていた点が非常に印象に残っております。本業がお忙しい中で、キャスに関してもいろいろとご自身で試行錯誤しながら、改良を重ねていったのではないかと想像できます。同時期に入ったルーキーの方は、綾瀬さんの卒業がとてもいい刺激になると同時に、焦りも感じているかもしれません。ただ、結果の現れ方は、人それぞれ。人には人のペース、自分には自分のペースがある。今回思うことは、綾瀬さんの日曜日の定期キャスのように、限られた時間の中でどこまで熱量を持って定期的な発信等を行えるかが、最終的に結果を出すために一つ重要だということですね。動いていれば、(方向性が間違えていなければ)結果はどこかでついてくる。動かなければ、結果は出ない。非常にシンプルです。これは自分への戒めでもありますが、決して短期的な結果を求めるのではなく、長期的な目で、自分のペースを崩さずに活動していく。そんなことを改めて考えさせられた綾瀬さんの卒業報告でした。ふと尾崎豊の「卒業」が脳裏に浮かんだ秋山純士
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2025年1月16日 22:05 の投稿「将来の夢」学生時代には誰でも一度は考えたことのあるテーマかと思います。皆様は小さい頃どんな夢をお持ちでしたでしょうか。ちなみに僕の大学生までの将来の夢の変遷は以下のようになります。プロ野球選手(野球少年はだいたい一度は憧れます)(野球を断念せざるを得なくなり→)カリスマ美容師(とりあえず大学に行くことを決めて→)アフリカへの社会貢献(自分がゴ〇ラであることに気づいて→)美味しいバナ〇を育てる今のところ、一つも叶っておらず、現在に至ります。もし、自分にすごい才能があって、プロ野球選手になっていたら…もし、自分が甘いマスクで手先も器用でセンスがあり、カリスマ美容師になっていたら…もし、自分がアフリカの現地人と仲良くなって、アフリカに住みついていたら…もちろん、今の自分は無かったし、この業界にも出会っていなかったはず。子どもの頃知っている世界と、今の自分が知っている世界は、まったく違う。田舎で育ち、当時はSNSなど流行っていない時代。知っている世界などたかが知れている。叶わなかったからこそ見れた世界がある。知れた世界がある。出会えた世界がある。叶わなかった言い訳にとらえらえれるかもしれないが、叶わなかったからこそ見えてきた、これから叶えたい夢も実はある。この歳になると、改めて「将来の夢は何ですか」、なんて質問すらされません。でもこれからどうしたいのか、何を達成したいのかというテーマは、いくつになっても重要なもの。むしろいろいろな世界を知った大人になってから持つ夢の方が、重要な気がしている。「自分のこれからの夢」いくつになっても将来はある。生きていく中でどんどん変わってもいいと思うから、夢は常に持ち続けていたい。